一昨日ぐらいに「なんだってキバヤシ」の一言で済ませてしまった下記書評。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/news/20060115ddm015070135000c.html
やっぱりちゃんと突っ込んどいたほうが良いと思い、マイミクであるすがふゆき氏とのやりとりを叩き台にして突っ込んでみる。
まず、本項の表題としても取り上げた言葉の意味。
本に書いてあることを鵜呑みにするのは、無教養な振る舞いも同然ってことだな。
色々読み比べ、書いてあることについて裏をとるまでは、たとえ結果的に内容が正しかったとしても、安易にそれを信じることは読者自身の「ファンタジー」(幻想)に過ぎない、ということをまず申し上げておく。その上で件の書評を読み解いてみよう。
まず内容の問題がある。これは、小説、漫画、映画、テレビなどの既存大衆メディアすべてに言えることだが、享受者の自己愛を肥大化させるものほど人気を得るという法則がある。自分が全能の主人公になった気分を味わえるファンタジーが愛されてきた所以である。幼児のときから人間の心に残っている「良い存在」と「悪い存在」に二分する思考法をファンタジーが快く刺激してくれるからだ。
だが、これらのメディアは受動的なものであったがゆえに、受容者が現実とファンタジーを簡単に取り違えることはなかったし、人類の心にインプットされた暴力回避装置のピンが抜かれることもなかった。ところが、仮想現実への「参加」を可能にしたゲームは、受容者にこの敷居をいとも簡単に越えさせてしまったのである。
…はい、この書評記者はこんなことを書きながら、暗黙のうちに自らの態度をもって自らの言説がウソであることを暴露している。
まず上記引用の前半部分『幼児のときから人間の心に残っている「良い存在」と「悪い存在」に二分する思考法をファンタジーが快く刺激してくれるからだ。』はこの書評記者の言うとおり。
彼は自ら、この本の内容というファンタジーによって自身の「良い存在」「悪い存在」を「快く刺激」されて見せることで、上記引用前半における自らの言説の正しさを証明している。
当該書評記者が何を「良い存在」と考えているかは不明だが、「悪い存在」と考えているものについては上記引用より以前の部分において
キレやすい子供、不登校、学級崩壊、引きこもり、家庭内暴力、突発的殺人、動物虐待、大人の幼児化、ロリコンなど反社会的変態性欲者の増大、オタク、ニートなどあらゆるネガティヴな現象
と明言されている通りだ。
…さて、問題はここからである。
最初に引用した部分のここに注目してもらいたい。
だが、これらのメディアは受動的なものであったがゆえに、受容者が現実とファンタジーを簡単に取り違えることはなかったし、
はい、大嘘。
書評記者は紹介する本の内容というファンタジーをあっさり信じ込んでしまうことで、
書物のような受動的なものであったとしても受容者が現実とファンタジーをあっさり取り違えてしまったケースの生きた事例に、自分自身がなってしまっている。
自分の言説がウソであることを自ら証明してしまってるわけだな。
書評記者の鹿島茂さん、
あんた自分で書いてて気づかなかったのか?
それから、
「ずっと飽きが来ないほどに、エキサイティングなものとなったゲームは、逆に極めて危険なものとなってしまったのである。なぜなら、ずっと飽きが来ないほどにわくわくし興奮するとき、脳で起きていることは、麻薬的な薬物を使用したときや、ギャンブルに熱中しているときと基本的に同じだからである。子どもにLSDやマリファナをクリスマス・プレゼントとして贈る親はいないだろう。だが、多くの親たちは、その危険性について正しく知らされずに、愛するわが子に、同じくらいか、それ以上に危険かもしれない麻薬的な作用を持つ『映像ドラッグ』をプレゼントしていたのかもしれない」
この部分と、その直後の部分
だから、ゲームも時間を決めてやればいいという議論は、麻薬でも少量ならかまわないという議論と同じく、成り立たないのである。しかも、戦慄すべきことに、ゲーム漬けになった脳は薬物中毒の脳と同じように破壊され、元には戻らなくなるという。
が、なぜ「だから」でつながるのかがわからない。
仮にこの本の
『ずっと飽きが来ないほどにわくわくし興奮するとき、脳で起きていることは、麻薬的な薬物を使用したときや、ギャンブルに熱中しているときと基本的に同じだからである。』
を正しいとしても*1、『わくわくし興奮する』ことをやっているときはゲームに限らず麻薬的な薬物を使用したときと同じなわけだろ?
なんでゲームだけが『ゲームも時間を決めてやればいいという議論は、麻薬でも少量ならかまわないという議論と同じく、成り立たないのである。』なんてことになるんだ? 他と扱いが違う理由は何だ?
何が『だから』なのか、ぜひ説明してほしい。
また、これは書評自体ではなく書評内の引用に対するツッコミだが、
『ずっと飽きが来ないほどに、エキサイティングなものとなったゲームは、逆に極めて危険なものとなってしまったのである。なぜなら、ずっと飽きが来ないほどにわくわくし興奮するとき、脳で起きていることは、麻薬的な薬物を使用したときや、ギャンブルに熱中しているときと基本的に同じだからである。』
ならば、それ以外の「ずっと飽きが来ないほどにわくわくし興奮する」ものもすべて「極めて危険」ということになる。
つまらないクリスマスプレゼントばかりになりそうだな(笑)
また、長時間のゲーム耽溺で失われる時間の損失も深刻だ。家族や友人との接触の中で学習される人生体験がまったく積まれないことになるからだ。
対戦格闘ゲームとかで沢山友達が出来たりとか、オンラインゲームで知り合いの輪が広がったりとかいう事例はどう説明するつもりだろう?
遊んだゲームに憧れて、ゲームを作る仕事に就くことに決めて、その結果色々大切なことを学んだ俺のような事例はどう説明するつもりだろう?
少なくとも俺はゲームを通じて様々な人と知り合うことで、大切な人生体験を沢山もらったけどな?
一時大騒ぎされたノストラダムスの大予言の解釈に地球崩壊は日本発だというのがあったが、アンゴルモアの大王というのがゲームだったとすれば、予言はまさに当たっていたことになる。子ども部屋からゲームやネットを取り除かない限り、亡国は必至である。
もう一回やってみるか。
「な、なんだってーっ!?」
「それは本当かキバヤシ!?」(もーえぇ)
…さて、この部分は、ミシェル・ドゥ・ノトルダム*2という16世紀プロヴァンス出身のユダヤ系フランス人医師によって書かれた詩集「百詩篇集」が予言書であるという暗黙の前提に立って書かれていることに注意。
この書評記者の鹿島茂という人はフランス文学の専門家であるはずなんだが、なんでフランス人の書いた詩集を、胡散臭い予言書として安易に扱ってしまえるのか、はなはだ理解に苦しむ(笑)。実は専門分野でもいい加減なんじゃないか、この人?
…まぁ、ある意味では「予言」として書かれたと言えんことはないんだが、それはミシェル氏の時代から見通せる程度の未来にわたっての「こうなりかねんなぁ」的な予測と警鐘であって、これは今でいうなら「SF詩集」なわけだな。
もちろん16世紀フランス人のミシェル氏はコンピュータゲームなんて知る由も無いし、ついでに言うならネットやゲームを終末予言に結びつけたのって、
それこそMMRのネタじゃないか?*3(笑)
以上を踏まえて書評冒頭に戻る。
あらゆるネガティヴな現象を作りだした犯人が誰であるかをかなりの精度で突き止めたと信じるからだ。
当該書評の記者である鹿島茂氏に、この言葉を贈る。
書を読みて悉く信ずれば、書なきに如かず