今日は何事も無かったので…

何事もなかったので、たまには随想など書いてみようかと思ったりする。


子供の頃からマイノリティに置かれることが多かった私は、昔からよく考えたものだった。

「多数決」という決定方法は果たしてそれほど理想的なものなのか?

「多数決」を「是」とする意見には、「多数意見は少数意見に対しより正しい」という前提が暗黙のうちに含まれている。しかし、その前提が正しいかと問われれば「必ずしも正しいとは限らない」といえる。


極端な話、ただ一人だけが正しく周囲が皆間違っているというケースは充分想定可能であり、実例もある。ある事柄を多くの人が信じていることは、その事柄が正しいことの証明にはならない。そうでなければ、16世紀あたりに突然宇宙がその姿を変えたことになる。人々がプトレマイオスの天動説を信じていた間にも、地球は太陽のまわりを公転していたわけであり、どれだけ多くの人が天動説を信じていたとしても、その点において正しいのはコペルニクスであり、ガリレイであったわけだ。


我々が何を信じているかとは無関係に決まっている事柄というものは確かにある。そうしたものについて論じる場合は、それぞれの意見の支持者の数やその比ではなく、その意見を裏付ける根拠に基づいて論じることが大切だ。その場合どの意見がどれだけ正しいかは、支持者の数にかかわらず、客観的な事実に基づいた根拠によってどれだけ裏づけられているかで決まる。充分な根拠に裏付けられた少数意見は、無根拠な多数意見より明らかに優れている。もちろん、無根拠な少数意見は、無根拠な多数意見と同じ程度に無価値だ。

充分な根拠を持つ少数派が、無根拠な多数派に踏みにじられその過ちのために皆が大変なことになるのであれば、多数派は自業自得なのでしょうがないとしても過ちに付き合わされる少数派はたまったものではない。


その見地に立脚すると、「多数決」の精神が反映された諸々の制度や慣習に疑問を抱くことがある。選挙制度陪審制度などがいつも公正に機能するとは限らないのは、おそらく皆わかっていることだろう。

もちろん、ただ一人の人間が常に正しいわけではないので、それを補正する機能を持つという点では「多数決」は「独裁」に比べ「多くの場合よりマシ」な決定方法だ(しかし、独裁者が「正しい」場合は、独裁のほうがマシな結果を出すことが考えられる)。


「多数決」が公正に機能しない場合、それは決を採る権限を与えられた者が相互の意見とその根拠を正当に評価する能力に欠けていることを意味する。権限を与えられた者たちが、決を採るまでの間に相互の意見と根拠を充分吟味する能力がある場合に限り、多数決は正しく機能するだろう。充分な根拠を持つ意見は、初期において少数であっても、その根拠を正しく評価することができる者たちを翻意させることができるからだ。相手を翻意させられない場合、それはその意見が根拠に欠けるか、相手が根拠を正しく評価する能力に欠けるかのどちらか、もしくはその両方だということだ。ただし「両方」である場合においては、「無根拠な意見に納得し、翻意する」という最悪のケースも考えられる。いわゆる宗教などがその類だと俺は思ったりするんだが。


とどのつまり、

「決を採る者たちの間で、より正しい意見が結果的に多数派になれる土壌がある場合においてのみ、多数決は比較的理想に近い決定方法だ」

ということか。問題点は「そんな土壌がどこにある」というところだな。その現実を補うために「長い時間をかけ、納得のいくまで幾度も吟味する」という先人が行ってきた方法があるのだろう。


…まぁ、暇にあかせてそんなことを考えてみたりするわけだが。
とりあえず部屋の掃除でもするか。