母の急逝

一連が落ち着いたので、記憶が薄れないうちに書いておく。

2024年4月10日未明、仙台の実家にいた母が急逝した。

自分のもとに第一報が入ったのは10日の朝0940。
朝起きたら母が呼吸をしておらず救急搬送されたと兄からSMSが入る。その日リモートワークの始業時刻を打刻して間もなくのことだったので、勤怠連絡の掲示板に事情を書いた上でその場で早退。その日の勤務時間は20分未満。関係各所に連絡の上、東京から仙台の実家に移動開始。

しかし移動中の1032、蘇生不能と判断されたと連絡が入り、母の逝去が確定となった。


父と兄によれば、前日まで本当に普段通り生活していたそうだ。いつもと同じくその日の営みを終え、多分翌日以降のこともいつも通り考えながら眠りについたのだろう。しかし翌朝、母は目を覚まさなかった。81歳だった。

既に自分自身が半世紀生きており、その両親ともなればそれ以上生きているわけで、いつそうなってもおかしくはない、というのは解っていた。そのせいか自分の初動は落ち着いていた。

自分が仙台に到着するまでの間に母の遺体は救急搬送された病院から斎場に移されており、自分が現地に到着する頃には斎場の畳の上に敷かれた布団に遺体が安置され、その場には父と兄、そして弟が既に揃っていた。

到着してまず最初の線香をあげ、母の遺体を確認し、「死に水をとる」というのを初めてやった。遺体は見た目に「いつもの寝顔」にしか見えないぐらい普段通りの母だった。寝たフリをしているのではないかとさえ思えた。しかし微動だにせず呼吸もしていなかった。

父と兄弟たちは、こうなってしまった以上避けられない葬儀の話をしていた。葬儀社から提案された三つほどのプランを前に、定年退職済みの父に加え、兄も弟もロクな貯金もなく、最も安いプランでさえ葬儀費用を捻出できない有り様だった。自分も決して裕福ではないと思われるが、その中では比較的マシな経済状態らしいので、俺がなんとかするしかなかった。

大の男が4人雁首揃えて誰一人株も投資もやっておらず、労働報酬以外に金を得る方法を知らない。貯金もなく母の葬式も満足に出してやれない程度の経済力。ウチの連中は俺を含め、本当に金を作るのが下手すぎる事が露呈した瞬間だった。

同時に近年亡くなる有名人の方の葬儀がほぼ近親者のみでささやかに執り行われ、すべて終わってから発表される理由がなんとなくわかった。おそらく皆葬儀を出す金が無いのだ。

人はとかく生きるための金を稼ぐことに忙殺され、死ぬために必要な金の工面は後回しにされがちだ。しかし死は常に突発的なもので、誰も計画的に死ねる者はいない。死ぬための金が工面できるまで死の訪れが待ってくれるわけではない。

金が無いという理由で大事な家族の葬式も満足に出せなかったとしたら、その無力感は自分が死ぬまでつきまとうだろう。ウチの場合は辛うじて俺のできる範囲で何とかできたが、俺が何ともできなかったら本当に打つ手無しだったかもしれない。

ひとまず、その日はもう遅いので葬儀プランの候補を持ち帰って検討するという形で4月10日は終わった。


翌4月11日。

葬儀社の方が自宅に来て、前日検討した方針を軸に質疑応答を交え修正を入れながらプランを確定。

翌12日に納棺、親族や関係者のみで故人を偲ぶ会食、
13日は読経の後出棺、仙台市内の葛岡斎場にて火葬、収骨と決まった。

何とか葬儀らしきものの体裁を整える算段を立てたところで、母の死を誰に伝えるべきなのか、というところでまた壁にぶつかった。母に限らず家族といえども交友関係を把握しているわけではない。昨今の葬儀が近親者のみになる理由は多分そんなところにもありそうだと思った。

母と特に仲の良かった伯母には勿論連絡を入れた。生前の母の記憶を捻り出し、連絡すべきだろうと思われる人がいたのでその方には連絡を入れた。ただ、あまり弔問に訪れる方が多くなっても返礼品の数を用意できる金が無いので、そこまでにとどめた。


4月12日、納棺の日。

我々家族が斎場に着く前に弔問に訪れてくださった方々がいた。母が立ち上げに関わった団体の方で、一体どこから聞きつけたのかと思ったが、自分が連絡をとった方が同じく関わっていたらしく、そこからのようだった。

葬儀に先立ち、母の遺体は死出の旅装束を整えられ、化粧が施された。普段から不自然なメイクはしない人だったので、最期もその方向でお願いした。

準備が整い納棺された姿は、やはり冗談で死んだふりをしているようにしか見えなかった。内心、

「いつまで寝とんねん。早よ起きんと明日にはホンマに火葬されてまうで」

みたいなことを思っていた。それは願望だったと思う。
ちなみに仙台なのに関西弁なのは、両親とも関西出身者で結婚とともに東北に来たため、家の中では皆関西弁だったからだ。

仙台も既に桜の季節となっており、飾られた花に桜が加わっていた。我が家と親交の深い子が「桜の季節だから桜を添えてあげて欲しい」とスタッフの方にお願いしてくれたとのこと。

夜になり、母の棺の前で焼香を済ませ、故人を偲ぶ会食。母は辛気臭いのを嫌う大変に朗らかな人であったが、そんな母と結婚した父と、その母に育てられた我々兄弟、そしてその母の周囲にいた人たちという面子なので、あまりしんみりした雰囲気にはならなかった。母もそうあり続けることを望んでくれるだろうと思う。

伯母は「立派な息子を三人も育ててよう頑張ったなぁ」と言ってくれたが、兄弟揃って母の葬式代もロクに捻出できない息子が立派かどうかはわからない。他の誰よりも俺を含めた当人たちがそう思っている。多分それは別に母のせいではない。


13日、出棺と火葬の日。

戒名は高額なお布施が必要らしいのでつけられなかった。なので出棺前に読経をお願いするにとどめざるを得なかった。

読経が終わり、出棺前に副葬品を収める。
母が庭で育てていた木が花をつけていたので、その枝を少しだけ収めた。飾られていた桜も収めた。桜の季節なのでささやかな花見ができるように。遺体の周りを花で囲み、蓋をして出棺。

前日からここまでの間、物言わぬ骸となり動かないはずの母の顔が微笑んだかのように見えることが幾度もあった。でもそれは錯覚なのだということもわかっている。錯覚であっても、周囲で繰り広げられる我々のやり取りに、母ならこのタイミングで笑うだろうというところで笑って見えた。

でも結局錯覚は錯覚で、当たり前だが母が目覚めることは無かった。母の棺を乗せた車を家の車で追い、葛岡斎場で火葬のため炉に棺を入れてもらう。これでもう、母という人間の身体を構成していた物質で我々のもとに残されるものは遺骨だけになる。動かないまでも母の姿を留めていた遺体はなくなり、在りし日の母の姿を残すものは写真などの記録物だけになるのだ。

火葬の終了を待つ間食事を採って休憩する。暑ささえ感じる快晴の日だったので、天ざる蕎麦をいただきながら、中学生の時のことを思い出していた。

中1の頃、家族で遊びに行った自転車のテーマパークで自分が危険運転の末に前方に放り出され顔面と左腕からアスファルト路面に着地、前歯と左腕を折るという事件があった。前歯の治療のため東北大学病院の歯学科に通うことになり、都度母が付き添ってくれたのだが、その日の治療内容に差し支えがなければ帰りに食事を御馳走してくれた。病院の前の蕎麦屋さんがとても雰囲気の良いお店だったので、ここで食べたいと言ったら連れて入ってくれて、その時食べた天ざる蕎麦がとても美味しかった─そんな思い出だ。あのお店はまだ残っているだろうか。

火葬が終わり、収骨を行う。死の前日まで自身の足腰で立って歩き回り普通に生活していた母の遺骨は、見るからに頑丈そうだった。専門ではないので実際のところはわからないが、少なくとも81歳の女性の骨格としては頑丈そうに見えた。遺族二人以上で同じ骨を拾い上げる「箸(橋)渡し」というのをやった。何となく「三途の川の橋渡し」にかけた験担ぎかなと思ったのだけど、調べたわけではないのでもっと意外な由来かもしれない。

集めた遺骨を骨壺に入れて収骨は完了。
戒名がないので俗名を記した仮の位牌と遺影の写真、そして遺骨を収めた骨壺のみを残し、母の身体を構成していた物質は自然に帰された。

自宅に戻り、しばらくすると葬儀社の方が祭壇を持ってきてくださった。骨壺と遺影、位牌その他最低限の仏具を設置。これで一旦今回の葬儀は一段落ついた形となった。