蟻と蟋蟀 【アリとキリギリス geek/hacker編】

太陽が照りつけ、虫たちが最も活気づく夏も終わり、秋にさしかかった頃。


蟻たちは冬の訪れに備え、せっせと食べ物を集め、巣に運び込んでいました。

こうした勤勉さは蟻たちの誇りであり、また夏から秋の間に冬に備える計画性の高さは、他の虫たちからも高く評価されていました。


でも、蟋蟀(キリギリス)は違いました。彼に言わせれば、蟻たちは「生きるために生きている」だけであり、生きている間の楽しみや喜びを知らない「つまらない奴等」だというのです。


蟋蟀は蟻たちに言いました。


「よう、ご苦労なこったな。毎年それやってるのかい? たまには遊んだりしないのかい?」


蟻たちは手を休めることなく答えて言いました。


「あなたこそ、フラフラ遊んでないで、ちょっとは冬に備えたらどうです? そのままじゃ、冬がきたら野垂れ死にしてしまいますよ?」


蟋蟀はふんと鼻を鳴らし、蟻たちを一瞥すると、目を閉じて自慢のバイオリンを構え、自らの芸術に勤しむことに戻りました。彼は彼で、その音楽を完成させることに忙しかったのです。


このとき、蟋蟀は口にはしませんでしたが、内心ではこう思っていました。


(野垂れ死ぬ? 少なくともこの俺には関係のない話だけどな)


そんな日が続き、やがて冬がやってきました。蟋蟀の音楽は冬の前に完成し(本人曰く「まだ手直しの余地があるが、当面は充分だ」そうですが)、蟻たちは夏から秋にかけて蓄えた食べ物によって食いつないでいました。蟋蟀はどうなったのでしょう?


彼は暖かい自らの巣の中で、新しい芸術を紡ぐことに夢中でした、食べ物は彼が探しに出なくても、欲しいときにいつでも彼の手元に舞い込んできました。

蟋蟀が冬になるまえに作り続けていた音楽は、魔法の音楽だったのです。彼自身が仕事をしなくとも、響き続ける音楽は彼に日々の糧をもたらしてくれるのです。何年後かには魔法も解け、彼は新たな魔法を必要とするでしょうけど、それまでの間に次の魔法の音楽を作ればいいだけの話。冬の間も、次の夏も、好きなだけバイオリンを弾いて暮らせば良いのです。


蟻たちは、自らの計画性を誇りにしていました。でも本当に計画的なのは、蟻たちではなく蟋蟀のほうだったのです。しかも明らかに蟋蟀のほうが蟻たちより効率良く目的を遂行していますし、蟋蟀はそれを楽しんでいました。そんな彼の目に、蟻たちの姿が滑稽に映るのも無理からぬことなのです。


蟋蟀の仲間たちも、彼が作った音楽を利用して、新たな音楽を紡いだりして冬を乗り切っていました。中には、この魔法の音楽の存在をしらなかった奴もいて、そいつは蟻たちに泣きついて命を繋いだり、本当に野垂れ死んだりしていましたが、それは魔法の音楽を知らなかったり、うまく演奏できなかった奴のほうが悪い、というのが蟋蟀たちの正義なのです。


冬が過ぎたらまた蟻たちは勤勉に働きはじめるのでしょう。そして蟋蟀は、去年作った魔法の音楽が「働かなくても食べ物を得られる時間」をくれる間に、また新たな芸術を極めるのでしょう。


【ご注意】
文中に登場する蟻と蟋蟀は比喩的な意味で登場しており、生物学的に確認されているアリやキリギリスの生態とは異なる生活をしていることをおことわりしておきます。