生憎と私は、絶望しないことに決めているんだ。

…なんか、今日の一発目に書く日記としちゃかなり重くややこしい話で申し訳ないんだが。


昔の私ならいざしらず、今現在私の周囲にいてくれる友人たちは、常に私の仕事が生み出すものの潜在的なユーザたちだと言える。だからこそ「こいつらの為に作りたい」「こいつらの口から『面白かった』という言葉を聞きたい」「どんな小さなことでもいいから、こいつらを楽しませる助けをしたい」と思える。

ちょっと前まではあまり中心に近くない仕事だと全くやる気が沸かなかったが、最近はそれがどんなに些細な仕事でも「楽しさに繋がっている」と確信できるものについては私自身が結構楽しめている。


その意味で私の視野は結構狭い。
漠然とした大局的視野の「お客様」じゃなくて、自分自身を含む明確で具体的な「誰か」のためにやってるようなものだから。でも「お客様」という言葉で括られる人々の一人ひとりが自我を持った人間だということを忘れてしまうよりずっといいと信じてるから、自分が間違っているとは思えない。


…でもやっぱり、そうでない人もいるんだな。プライベートで潜在的なユーザとみなせる人たちとの付き合いが無いっていう人が、私の同僚の中にすらいるわけだ。

一緒に飯食って酒飲みながら、色々遊んだ中の何が面白くて何がつまらなかったのか、何を好きになって何を嫌いになったのかを「同じユーザとして」話すうち、彼らにとって何がOKで何がNGなのかを体感的に理解できる感覚ってものを私は養ってきたつもりだけれど、その感覚を彼らはどうやって養うつもりなんだろう? あるいはそんな感覚は必要ないって思ってるんだろうか?


「ライトユーザ向け」という言葉を業界で聞くようになってから、もう10年以上が経過する。でも私が思うに、「ライトユーザ」という言葉は「○○の傾向を持ったゲームが好きな人」の割合を示した円グラフがあったとしたら「その他」と同義じゃないかと。円グラフの表示上はもちろん大きなパイを示すけれど、それは「一つの層」ではなくて「色々な人を十把一絡げにした項目」をそう呼んでいるに過ぎない。

それはつまり「そもそもゲームをやらない人」を含めた、分類するにはあまりにも多彩かつ目だった共通項の見出されていない嗜好の坩堝(るつぼ)であって、確かに業界にとって未開のフロンティアではある。ただ、考えもなしに使われる「ライトユーザ向け」なんて言葉は具体的なターゲット層を絞り込めない言い訳にしか聞こえない。

「ライトユーザ向け」なんて言葉を使わずに、その「ライトユーザ」の中の「具体的にどんな人」に楽しんでほしいのかをはっきり言えるならいい。口には出さずとも楽しんでほしい具体的な誰かの顔を思い描くことができるならいい。そうでないならそれは、下手すると「結局誰も楽しんでくれない」ものにしかならないように思える。


プライベートで潜在的なユーザとなる人々との付き合いが無いのも、安易に使われる「ライトユーザ」という言葉も、ユーザという言葉が指しているのが実体を持った人々である現実とガチで向かい合っていないというところで共通している。そんなところは確かに、ある人が私(の分身)に言ったように「業界の体質の問題」なのかもしれない。


だけど私は、絶望だけはしないことに決めている。
そうじゃない人たちも沢山知っているからね。