http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000921
なかなかに面白い記事だった。
平林:
意地が悪い質問かもしれないですが、情報が適正に与えられていれば、“分数ができない大学生”が集まった“みんな”でも正しい判断ができるものなのでしょうか?
西村:
そういう人たちであっても、日常のことを判断する限りにおいては間違いはないと思います。けれど、その人たちが数理的なことで判断を下すと間違えますよね。
ん、そりゃそうだ。
判断するにあたって、判断を行うに足る充分な素養を身につけておくのは必要だわな。
まぁなんつーか、なんにつけても「しっかり勉強しておけ」と。
んで、このあたりのやりとり
平林:
なるほど、みんなが使っていると一種の公共フォーマットになって、とても便利ですからね。
けれど、そういった事実上“標準ソフト”として広まってしまうと、ほかの製品や新たな技術革新が生まれづらいという弊害が生じるようにも思うのですが?
西村:
小さな技術進歩は妨げられるかもしれないですが、大きな革命的な技術進歩を不可能にするわけじゃないですよね。
は、読み違えやすいかもしれない。
まず、「大きな革命的な技術進歩」っていうのは、小さな技術的進歩を累積させた上で、初めて成されるものだ。「小さな技術進歩が妨げられる」のであれば、「大きな革命的な技術進歩」はありえない。革命的進歩が成されているのは、その礎となる小さな技術進歩が完全に妨げられているわけではないということであり、それを支えているのは、本当に全てが同じになっているわけではなく、不均一ではあっても多様性が保たれているという現実なわけだな。
ご本人が
同じものを使う人が多いほど、利便性が高まることがあるわけです。
と仰るとおり、局所的に見れば同じものを使っていれば便利なことはある。ただ、全体を見ればやはり多様性は必要なわけで、それについては記事前半で
西村:
逃げ道のないところで戦わされたら嫌でしょうね。けれど、たくさんのいろんなことをやらされて、つまり、選択肢がたくさんあるところで競争して、自分が自分に合ったところを見つけられるような競争だったらいいのではないでしょうか。
と述べられているわけだ。
一番共感したのはこの部分かな。
国による投資の中で、人間への投資、つまり教育がいちばん経済の生産性を上げるという研究結果もあります。それなのに、能力の低い大学生を大量生産したというのは、教育費を“非常に無駄な投資”にしてしまったということですね。
方向性はどうあれ、充実した教育を受けた人間を多数輩出することこそ、一番安上がりな手だ。
なんせ、あとはそいつらがやってくれるわけだから、教えるだけで済む。