彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は共産主義者ではなかったから。


社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。


彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。


彼らがユダヤ人たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人ではなかったから。


彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる人は誰一人残っていなかった。

slashdot.jp のある記事に対するコメントで知った。良い詩だと思う。


著作権侵害非親告罪が進んでいる、という話が出ている。
最初はうわさの域を出ないと考え、慎重を期して色々と各所で出ている話を見ていた。合理的に考えて、著作権侵害という犯罪を非親告罪にするメリットが何一つ見出せなかったので、いくらなんでもそんなロクでもないことを考えるほどまでに、法をいじくる連中は馬鹿ではないと思っていたからだが。
が、日弁連(日本弁護士連合会)も反対意見書を出しているところを見ると、どうもそうでは無いようだ。


一応のところ、私もコンテンツ産業を構成する人々の末席を汚す端くれなわけだが、非親告罪化の動きがあるならばそういうはた迷惑で百害あって一の利もないマネには断固反対の意見を表明しておく


これは個人blogであるので、所詮これは私見に過ぎないが、自分たち(個人でも会社でも)が作ったもの(著作物)の扱い方について、何がよくて何が悪いのかを判断する権利を、事情を知らん連中(警察)にも譲り渡せなんて、そんな馬鹿な話があるか。トータルな社会的コストを考えた場合でも、負荷が増すだけだ、という単純かつ予測可能な結論がなぜ出てこないのか不思議でならん。


こういうルールの類を考えるときは、ある者が常に権利者であり、他の者が常にその利用者である、という前提を捨てなければならない。ある場合の権利者は、他の場合では利用者の立場に回るからだ。そして大抵の場合において、権利者であることよりも利用者であるケースのほうが多い。
権利者としての利益を重視しすぎると、利用者側の負荷やリスクが増す。そして権利が保護されるケースと負荷やリスクが増すケースのどちらが多いかは、権利者と利用者のどちら側になることが多いかに比例する。これは前述のとおり、利用者であることのほうが多いわけだ。ソフトウェア特許の例を持ち出すまでも無く、権利者側に便宜をはかりすぎることは、その権利者が利用者の側に回ったときの負荷やリスクにしかならない。


著作権侵害非親告罪化がもたらすものは、トータルのリスクを増やした上で、増えた分も含めたリスクを回避できる範囲においてリスクを回避できる人たちだけが作ったものだけが合法となる、憲法に記された「表現の自由」から乖離した社会だ。

日本は国策として「コンテンツ大国」を目指すんじゃなかったのか?
コンテンツを生み出す土壌を締め上げてどうするつもりだ?


そんなわけで、自分に関係ないとは到底思えず、前述の詩を書いたマルティン・ニーメラーのように後悔したくはないから、俺は声を上げる。心情的にも理論的にも、非親告罪化は反対する理由は大いにあっても容認すべき理由は何一つない