記憶だけでなく記録することにする。

人の記憶は薄れゆく。
しかし、そうしないために人は記録することが出来る。
だから私は、時間を共にした友人が確かに存在したという事実を、ここに記録しておく。


昨晩、冬の有明で出すつもりの、2枚目のCDに収録する曲を書くため、PCの前に座りギターを肩にかけ、コード進行を一つひとつ試していたときのことだった。


Live Messengerで、上海に住む中国人の友人からメッセージが届いた。曰く、共通の友人・RABBIT.氏が亡くなったことを聞いたか、と。


彼によれば、mixiで彼の逝去を告げるメッセージが届いたとのこと。確認したところ、私にも届いていた。発信者はうんすい氏。台東区某所、いや、明記しておこう。台東区にあるメイド居酒屋「ひよこ家」にて幾度もお会いしたことがある方だった。彼によればRABBIT.氏の弟さんより連絡を受け、RABBIT.氏のマイミク一人一人に連絡のメッセージを送っているという。


たちの悪すぎる冗談と思いたくはあったが、発信者のうんすい氏が彼の死を冗談にできる人物とは思えなかった。メッセージは事実に相違なかった。


このblogに書いてきた記録によれば、最後に故人と会ったのは、6月7日に行われた麻雀だったと思われる。それから僅か2箇月足らずで、彼は私と同じ35歳にしてその生涯を終えた。彼は私と同年度の生まれだった。


私がひよこ家に行くようになった2003年以来6年間、店に足を運べば、ほぼ毎度の如く彼はカウンター席にいた。アロハシャツを身に纏い、中国語の本を開いてJIM BEAMを嗜む姿が風物詩だった。


彼は中華圏の文化を好み、自ら中国語も話した。香港に居を構える夢をもっていた。「インド人のタクシー運転手に日本人に見えないと言われたことがある」というのは、彼の定番の持ちネタだった。


ここ数年は体力的なものや時間調整の困難もあり殆ど行かなくなったが、秋葉原で徹夜カラオケに興じた際はほぼ必ずメンバーにいて、誰よりも先に寝てしまうのも彼だった。しかし、それすらどこまでも彼らしい振る舞いだった。


論理的理解力にも長けた人だった。私が彼にハードSFで頻繁に用いられる理論について説明を求められた時、噛み砕いて説明するまでもなく重要なポイントにさしかかった時点で、彼は即座に全貌を理解して見せた。


最近ではベースに興味を持ち始めていた。うんすい氏からのメッセージを読む直前まで、仲間内を可能な限り巻き込む予定だったネタバンドで、ギターを引く私の隣でベースを鳴らすのは彼である予定だった。ようやくドラマーに仕立て上げられそうな共通の友人をそそのかし始めた矢先だった。



彼がいつ生涯最後の瞬間を迎えたのか、その時何を思ったのかはわからない。それは、私が知る必要のないことなのかも知れない。


ただ、RABBIT.氏が私の友人でいてくれた6年間に、感謝する。