それは所詮ただの道具

http://www.asahi.com/articles/ASGC95RP3GC9UCVL11G.html

こういう「創作に際する思考の働きを一定以上自動化する」試みは範囲の大小問わず昔からあって、「人が創作をする際の考え方」をフレームワーク化することはもちろん可能であろうと考えている。


つまりそれらの考え方はかなりの部分が訓練と学習によって身につけられるものである、ということになるのだけども、全面的な才能論の元で自身の鍛錬不足という事実から逃げたり、あるいはそれで優位に立っているという人にとって、その結論は色々と都合が悪いかも知れない。


で、こういう「既にその分野のノウハウを身につけた人によって生み出された、省力化のためのフレームワーク」というものはプログラミングの世界においてはかなりお馴染みだ。Web方面の Rails やゲーム方面の Unity3d などはその典型例。これらは各方面における「プログラムのあり方」を規定し、その中で異なる部分についてのみを記述させることにより、「そもそもその方面のプログラムのあり方さえよくわかっていない人」でもある程度なんとかなる仕組みであり、フレームワークとはすなわちそういうものだ。

「モノの作り方」がある程度決まっている世界はプログラムだけではなく、ほぼこの世の全ての創作分野がそう(というよりどこかに定型を持つからこそ「分野」となる)であるし、定型を持つということはフレームワーク化できる、ということなので、情報を扱う機械が進歩すれば当然こうした流れは出てくる。


こうした既存のフレームワークを用いて生み出されたものが無価値かと言えば決してそうではない。もしそれを無価値と言うならば、Railsを使って作られたWebSiteも、Unityを使って作られたゲームも等しく無価値、ということになってしまう。

ちょっと前には「王道のコード進行を使って作られた曲」を無価値と言い張る人たちもいたような気がするが、それと同レベルの論だ。「王道のコード進行」や「音楽理論」といったものはその分野の「ライブラリ」や「フレームワーク」にあたるもので、「標準Cライブラリを使用して書かれたプログラムは無価値」とか「OS上のアプリケーションとして書かれたプログラムは無価値」と言っているようなものだ。それらは絶対ではないが、それを用いることで無価値になったりするようなことはない。場合によっては定型に沿うことで価値を高めるものさえある。


ただ、おそらくどんな分野についても言えるのは、そうしたフレームワークが何をやっているのか、なぜそうするのか(あるいはなぜそれを使うのか)を理解し、必要とあればある程度同じものを自身で作れる(あるいは助けを借りずともある程度自身で同じことができる)人が省力化のためにそうした道具を使うのは全く問題無いのだけども、

「なんだかよくわからないけどもこれを使うとできるらしい」
「これ無しで自分でやれと言われたらどうして良いかわからない」

という人は、どこかで「これは何をやっているのだろう?」「なぜそうなる(そうする)のだろう?」という点に興味を持ち同じことを自分でもやってみよう、という試みに踏み出さない限り成長しないだろう、ということだ。「Unity臭いゲーム」とか「Rails臭いサイト」とかは、多分そうした人によって生み出されるのだろうと思っている。冒頭のプロット支援ツールなどもその分野で広く使われるようになれば同様だ。


自身で同じことをやってみる、というプロセスを経て道具に回帰したとき、初めて「道具に使われる」のではなく「道具を使いこなす」側に立てる。便利な道具が何をしているかも、なぜそうするのかの理由もわかっている人間は、道具があっても無くても優秀だ。