私が中国政府のチベット政策を批判する理由

予告した記事を掲載すべき時が来た。
記事全体が長くなるので、本記事の主旨から述べる。


今回の記事は2008年3月12日チベット自治区への外国人記者渡航禁止に始まり、同14日に行われたとされるチベット独立デモに対する人民解放軍の「対応」ならびに内外に対する中国メディアの「報道」で顕在化し、今なお止まぬ中華人民共和国政府を代表する中国共産党によって行われてきたチベット自治区における政策を批判するものである。


個人の生活をダラダラ綴るだけのblogに突如こんな記事が登場して面喰うかもしれないが、一個人というものが国際社会を構成する最小単位である以上、それに関する己の知見を述べるのもまた「個人の生活の一部」だと思ってお付き合いいただければ幸いである。


自らは安全なところからお題目ばかり唱える偽善と笑わば笑うがいい。それでも、看過できぬ事態に沈黙せず声をあげ、意思を示すことには意味があると信じて書くことにする。


私は何の権利や責任があってこの記事を書くのか?

実態はさておき法の上で「言論の自由」「報道の自由」が認められた国々に住む我々にとって、各種メディアによる報道を頭から信じ込むのは愚劣極まりないことだというのは、今さらここで述べるまでもない。


なぜなら、「言論の自由」「報道の自由」というのは、自他を問わず虚偽や誤認を含めてそれらを言説として発表したり報道する「自由」(=責任を伴う)をも認める、ということだからだ。もちろん「虚偽を述べる自由」を行使した結果の情報が信頼に値しないことは言うまでもなく、虚偽を報じた者はその責任を問われるが、メディアを含む万人がその「自由」を持つ以上、それらの情報を受ける側にも、その真偽を見極める責任が伴う、ということである。


また、その責任を果たし、得た結論を自己のものとし、観想や主義・主張を抱く「思想の自由」をも持ち合わせており、またそれらを己の言説として、先に述べた「言論の自由」の上で発表することもできる。


私は一個人としてそれらの自由を行使し、この記事を書く。それゆえ、文責は私に帰する。
ただし、この記事の真偽の判断は、私が各種報道の真偽を自身の責任において判断したのと同様に、読者諸氏に委ねられる。


日本人である私が住んでいる、「言論・思想の自由」が保障されているはずの社会とは、そういうものであるはずだ。



私は何を主張し、何を主張しないか

今回、私は「チベットはどの国のものか」を主張することはしない。なぜなら、国境線は不動ではなく、歴史的な経緯で絶えず変動するものであり、有史以来そのような例には事欠かないからだ。そのようなわけで、「チベットは独立すべき」とは主張しないが、同様に「チベットは中国の領土であるべき」という主張も一切支持しない。


私が主張するのは、「チベットに住み暮らす人々には、我々と同様、自由かつ平和に暮らす権利があり、万人が等しく持つはずの人権によって生命を脅かされない権利があり、その権利を侵害し続けている中国共産党は糾弾されなければならない」という、その一点のみだ。


歴史的経緯

中国、いや、漢民族チベットとの間にある軋轢の歴史を辿れば清朝の時代にまで遡るわけだが、今日の事態の多くは辛亥革命に端を発するので、そこから述べることにする。


清朝の時代にチベットを軍事的に制圧していた四川軍は1911年の辛亥革命でその勢力を失う。翌1912年、法王ダライ・ラマ13世はチベットの完全独立を宣言。しかし、チベット、イギリス、中華民国間で行われた「シムラ会議」において、独立を宣言したチベットと、チベットをあくまで中国の領土と主張する中華民国との間で会議は決裂。以来、チベット側はダライ・ラマ13世の独立宣言を有効と考え、中国はチベットを自国領と認識している。この食い違いが一世紀も経過しようとしている2008年現在まで悲劇を生み続けている。


その後中国は内戦に突入する。共産主義を掲げるソビエト連邦の支援を受けた中国共産党が台頭し、1945〜1950年の間、チベットは中国人民政府による侵略を受ける。ここで「侵略」という言葉を使用したのは、チベット側が抵抗運動という意思表示を行っていたからだ。彼らは抵抗していた。すなわち、人民政府による併合を望んでおらず、拒絶の意思を示していた。


1950年、中国人民解放軍チベットを制圧。全域を自国に「併合」。併合とはまた穏やかな言葉だが、前述のとおり抵抗していたチベットを侵略した結果占領し、支配下に置いた、というのが実態だ。


とりあえずこの時点でチベットは「十七ヶ条協定」によって「改革を強制しない地域」に指定されていた。しかし1950年、チベット北半部アムド地方、カム地方東部はその「改革を強制しない地域」から除外される。中国共産党チベット社会主義改造に乗り出したわけだ。


こうした経緯を踏まえ、1956年、チベット北半部において抗中蜂起がおこるが、同年人民解放軍により鎮圧。アムドならびにカム地方から敗走したゲリラ兵や難民が、南半部の西蔵(シーツァン)に流入。当時の西蔵ガンデンポタン*1により平和裏に統治されていた。


その年のうちに、北半部出身者を中心として統一抗中ゲリラ組織「チュシ・ガンドゥク」結成。これを踏まえ、中国人民政府はガンデンポタンにチュシ・ガンドゥクの制圧を「命令」。

…つまり、中国人民政府はガンデンポタンを自分と同等の政府と見なさず「命令」した。しかもその内容は「同族を殺せ」というものだった。また、1959年にはガンデンポタン首相ルカンワの解任を「要求」している。中国がチベットを対等な「国」とは見なしていないことがよくわかる。


このように中国人民政府はさまざまな手段を弄して、チベットを名実ともに中国の領土にしようと画策してきたが、その後、ダライ・ラマ14世率いるガンデンポタンチベットを脱出。インドへの国境を越える直前にチベット臨時政府の樹立を宣言。そして現在に至る。



かなり駆け足だが、中国とチベットの歴史的経緯をおおまかにまとめるとこんな感じだ。

抗議されるべきこと

悲しいことだが、上記のような歴史的経緯というのは中国とチベットの間だけでなく、世界中どこででも見られる歴史の一つに過ぎない。それがいけないなどと言っても仕方がない。


しかし、過去にそうだったからといって、これからもそれでいい理由にはならない。歴史が繰り返すとしても、それは一定の反省のもとに繰り返されねばならない。


過去、幾度と無く行われてきたチベットの非暴力的デモは、全て中国人民政府の暴力的鎮圧によって報いられ、そのために失われた人命は夥しい数に上る。今回もそれが繰り返された形だ。いったい何時までそのような前近代的、非文明的な行いを続けるのか。人命を軽視し、それを安易に奪うことは、最も極端な人権の侵害だ。生命の自由は、最も偉大な人権だからだ。


政治的信条や理念、言動を理由に拘束、投獄される「思想の取り締まり」も続いている。言論や思想の自由を保障するのは、現代の世界において先進国が満たすべき条件の一つといっても良いと考えられる。心が自由であることも大切な人権だ。その意味で、未だ中華人民共和国は現代の先進国たりえていない。


また、チベット仏教に限らず、中国人民政府が保障している「信教の自由」とは名ばかりのものだ。それぞれの教義を政府に都合よく解釈した「改変版」の信仰を強いている。私は個人としては、宗教とは根拠無く信仰されるものであって、それは考え方としては非合理であり間違っていると主張して憚らない人間ではあるのだが、その間違いをも含めて人は自ら信ずる宗教を選ぶ権利がある。大多数のチベットの人々にとって仏教は民族のアイデンティティの一つであり、この姿を歪め抑圧することはすなわち大規模な人権の侵害に他ならない。


今回、私が中国人民政府を糾弾し批判する理由は、こうした人権を侵害している実態についてである。血生臭いことこの上ない20世紀の歴史から人類は学んだはずなのだが、未だこうして反省も無く繰り返されている地域があり、そのいくつかは主に中国が領土と主張する地域である。チベットはその代表的な一つであり、そこに住む人々の20世紀はまだ終わっていない。

チベットの人々を取り囲む国境線がいかなるものであろうと、
彼らの人権は守られねばならない。
彼らの生命と心は、彼らの意思にとって自由なものでなければならない。


これを侵害する中華人民共和国政府、中国共産党に、抗議の意思を表明する。

少なくとも、私がチベットの人たちのような状況に置かれたら、絶望してしまうかも知れない。そんな世界に生まれるのは嫌だが、彼らは生まれてしまった。自分だったら嫌だと思う境遇にある人たちを解放してほしいと思うのは、自然なことだと考える。長々と書いたが、結局言いたいのはそれだけなのかもしれない。



安全な場所から動けない忸怩たる私と異なり、国際的な祭典の場を通じて、自ら行動して抗議の意思を示した人々を私は尊敬する。


そして、このような長文を読んでくださった方がもしいたら、その方には感謝を捧げる。


チベットの人々に自由を。
Free Tibet.

*1:ダライ・ラマを長とし、1642年に成立したチベットの政府