同じ作品、同じ訳者でも、訳文の違いがあるんだな。

私は既に読んだことがあって手元にその本がある作品でも、異なるバージョンの本を見かけると買ってしまう習慣がある。


日本で出版される海外SF作品というのは、外国語の原文から訳出された結果であるのは言うまでも無い。そして、訳者が違えば同じ原文でも文体や言い回しが異なる訳文になるし、同じ訳者によるものであっても、版を重ね改訂されることで生じる差というものがあるからだ。もちろん、装丁を新たにした際の表紙の相違などが最も大きな魅力であることは当然のことだ。


で、今回はそんな「同じ作品の、バージョンが異なる本」の魅力を語ってみたくなった。

【例】A.C.Clarke's "CHILDHOOD'S END"

この作品の訳書は、日本では二つの出版社から刊行されているので、どちらかを贔屓しないように原題で書くことにした。ちなみに邦題は、

となる。

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

地球幼年期の終わり (創元推理文庫)

地球幼年期の終わり (創元推理文庫)

この作品を例に挙げたのは、もっともわかりやすいところ──本文の最初の段落──に、明らかな相違が見てとれるからだ。


原書(PAN BOOKS刊 ARTHUR C.CLARKE CHILDHOOD'S END Revised Edition including author's Millennial Foreword より)

(写真左上)

THE VOLCANO THAT had reared Taratua up from the Pacific depths had been sleeping now for half a million years. Yet in a little while thought Reinhold,the island would be bathed with fires fiercer than any that had attended its birth. He glanced towards the launching site, and his gaze climbed the pyramid of scaffolding that still surrounded the Columbus. Two hundred feet above the ground, the ship's prow was catching the last rays of the descending sun. This was one of the last nights it would ever know: soon it would be floating in the eternal sunshine of space.

上記は、原書からの引用である。太字で強調した部分は、各訳文間で最も目立つ相違点に当たる箇所。Two handred feet above the ground(地上二百フィート)という値を覚えておいてもらいたい。


なお、1[ft] = 0.3048[m] であるから、「地上二百フィート」は地上60.96[m] ということになる。

沼沢洽治・訳「地球幼年期の終わり」(東京創元社) 1974年5月10日 第11版

(写真右上)

太平洋の深淵から、ここタラツーアの島を噴火によって水面まで押し上げた火山は、過去五十万年眠ったままでいる。が、じきに──とラインホルドは考えるのだった──島は誕生の時などくらべものにならない強烈な焔に押し包まれることになるのだ。ロケット発進基地に目を走らせると、ラインホルドは、〈コロンブス号〉のまわりにまだ組まれたままのピラミッド型の足場を、下から上へと視線で追うのだった。地上七十メートル──宇宙船〈コロンブス〉のへさきが、沈む入り日の最後の光に照りはえている。あの船にとっては、もう残り少ない地上の夜がまた来ようとしているのだ。やがて〈コロンブス〉は、宇宙空間の永遠の陽光の中をさまようのである。

沼沢先生の訳では、「地上七十メートル」となっている。原文の値より10メートル弱ほどコロンブス号のへさきが高くなっている。

これはあくまで想像でしかないが、翻訳にあたってメートル法に変換する際、1[ft]=約1/3[m]で計算して、66メートル前後→四捨五入して約70[m]としたんじゃなかろうかと。本当は違うかもしれないが、そういう訳者の思考を推理するのも面白い。

福島正実・訳「幼年期の終り」(早川書房) 1986年4月30日 第11刷

(写真左下)

その昔、タラチュア島を太平洋の深淵から隆起させた火山は、すでに五十万年の長きにわたって眠りつづけていた。しかし、それもやがて──とラインホールドは思った──あといくばくもなく、誕生の時にいやまさる、激しい火焔に身をさらすことになるのだ。彼は発射台の方をながめやった。つづいてその視線は、まだコロンブス号の船体を囲繞する尖塔状の足場にそって、上へあがった。地上二百フィートの高みに、入日の残照を受けた船首が、キラキラと輝いていた。今夜は、この宇宙船の知る最後の幾夜かの一夜となる。コロンブス号が、宇宙の永遠の陽光のなかに浮かぶのも、もうまもないのだ。

福島先生の訳文は、この後もう一つ出てくる。
これは早川書房から出ていたものでは比較的古い版における訳文。固有名詞の表記が沼沢先生の訳と異なっている。まぁ異なる訳者による訳文の間ではよくあることだ。

コロンブス号の船首は原文の単位表記をそのまま持ってきて「地上二百フィート」となっている。

福島正実・訳「幼年期の終り」(早川書房) 2003年6月30日 第28刷

(写真右下)

その昔、タラチュア島を太平洋の深淵から隆起させた火山は、すでに五十万年の長きにわたって眠りつづけていた。しかし、それもやがて──とラインホールドは思った──あといくばくもなく、誕生の時にいやまさる激しい火炎に身をさらすことになるのだ。彼は発射台の方を眺めやった。つづいてその視線は、まだコロンブス号の船体を囲繞する尖塔状の足場にそって上へあがった。地上六百メートルの高みに、入日の残照を受けた船首がキラキラと輝いていた。今夜は、この宇宙船の知る最後の幾夜かの一夜となる。コロンブス号が宇宙の永遠の陽光のなかに浮かぶのも、もうまもないのだ。

上のものと同じ福島先生による訳だが、おそらく現在書店で買うことが出来る最新の訳文である。基本的な文体は同じだが、よく読むと漢字の使い方が変更されていたり(二つの訳文で強調表示してある「火炎」「火焔」「ながめ」「眺め」)、読点の打ち方が古い訳文と異なっていて、流暢に読むことを促すようになっていたりといった相違がある。

また、コロンブス号の船首の高さがメートル法表記に直されている…のはいいんだが、「六百メートル」になっている。なんと、クラーク御大による原文の約10倍の高さ(笑)…まぁ、約60[m]がおおよそ正解なので、改訂の折に桁を間違えたのだろうということは容易に推察できる。



…こんなふうに、同じ底本による邦訳書であっても、訳者やバージョンによって様々な違いが生じるものなのだ。こういうのを発見して、同じ原文から訳出された異なる文から受ける印象がどう違うのかを考えると、邦訳を読むのがずっと楽しくなると思うのだが、どうだろう?

おまけ: Excite の自動翻訳サービスが吐き出した訳文は…

(http://odn.excite.co.jp/world/text/)

太平洋の深層から上がっているTaratuaを育てた火山は今や、50万年間眠り続けていました。 しかし、少しでは、ラインホルトであると思われている間、炎がそれが出生にいくらか出席したより激しい状態で島は洗われるでしょう。 彼は発射サイトに向かってちらりと見ました、そして、彼の凝視はまだコロンブスを囲んでいた足場のピラミッドを登りました。 地面に200フィート上では、船の船首は下る太陽の最後の光線を引っ掛けしていました。 これはそれが知っている最後の夜の1つでした: すぐ、それはスペースの永遠の日光で浮かぶでしょう。

…文意が異なっている上に風情もへったくれもない。
読むに耐えない怪文書になってしまった(笑)