善悪は科学や技術ではなく、人にこそある。

今日が何の日であるかは説明不要だ。いや、説明は不要でなければならない。
忘れていたという人も、朝からNHKあたりを見ていれば否が応にもわかっただろう。


今日は、科学や技術に携わる者が忘れてはいけない大切な日だ。


あらゆる知識と技術の産物は、使う者の意図によって神にも悪魔にもなる。核分裂によって放出されるエネルギーをそのまま破壊力として叩きつける人類最初の兵器は、61年前のこの日に初めて用いられた。

物質の質量はそのままエネルギーに変換可能であるという知識そのものに善悪はない。現在日本を支える電力のうち、かなりの割合が原子力発電でまかなわれている*1のを見てもわかるように、核のエネルギーは暮らしを支えるためにも用いられている。


本質的に同じエネルギーを用いる核兵器原子力発電を隔てるものは何なのかといえば、もちろん「それを生み出し、使う上での意図」以外の何者でもない。


目新しい議論ではないが、知識と技術は刃物に似ている。


たとえば包丁という刃物は調理という日常生活行為を行うために作られたものだが、日本刀は明らかに他者を殺傷する目的で作られたものだ。
この両者は「金属を板状にし、その端を極端に薄くすることによってある程度の堅さのものであれば切り裂くことができる」という知識から生まれた「刃物」という本質的に同じテクノロジを用いて作られており、それゆえ日常生活に用いるための包丁であっても使う者の意図によっては凶悪な殺人事件だって起こすことができる。


しかし、人が殺せるからといって包丁の製造や販売、所有を禁止しろ、というのが大変に愚かしい主張であるというのはおそらく誰しも理解できるだろうし、あからさまに他者を殺傷するための道具である武器として作られた日本刀については、禁止するか何らかの規制をかけるべきだという主張も感覚的にその正しさは理解できるだろう。また、事実そのようになっている。


包丁と日本刀を隔てるものは「考案した者の意図」であり、包丁を調理に使うか殺人に使うかを隔てるのは「使う者の意図」だ。
包丁と日本刀そのものに罪があるわけではない。それらはいずれも「刃物」というテクノロジのもと、刃に使われる金属が加工された型を保っているだけだ。


善悪は「考案した者の意図」と「使う者の意図」にこそある。


スケールの差こそあれど61年前の原子爆弾はその最たるもので、質量をエネルギーに変換できるという知識のもと、物質のもつエネルギーを取り出すテクノロジを応用し、大量に人間を殺戮するための兵器として作られ、都市を空爆し犠牲者を出すという目的で用いられたのだ。政治的にはそれは目的でなく手段であったとしても、原子爆弾はその「手段を行使するという目的」のために運用されたことは間違いない。


科学は知識であり、テクノロジは読んで字のごとく技術である。
それらに携わる者が常に心しなければならないのは「意図」が己の良心に反しないかを問うことだ*2


もちろん、それらの産物を単に用いるだけの人も「その使い方は正しいのか」を問うてほしい。科学者や技術者が配慮できるのは「考案した者の意図」までであり、「使う者の意図」をコントロールすることはできない。


…とまぁ、技術者としては末席も末席に位置するゲーム屋の一人は考えているわけだが。

*1:2004年の段階で、一次エネルギー中に原子力が占める割合は13%。電気事業連合会「世界および日本のエネルギー情勢」より

*2:もっとも、純粋な知識である「科学」の側にはあまり必要ではないかもしれない。応用し、実装する「技術」の側には間違いなく必要だが。