その名はX。青き鳥は去り…

わかると思うが表題はtwitterの名称の話。周囲ではまあXボンバーだとかグロイザーXだとかガンダムXだとか言われてた。一応そこに「謎の東洋人X」というのも放り込んでおきたい。知らんけど。

 

しかしまあ2010年にtwitterを始め軸足を移してから早13年。名称も変更になったことだし軸足を再びこちらのblogに戻そうかな、という気になってきた。

先日Xとなったtwitter、リアルタイム性が高く、短文ベースなので、情報量を詰め込むのは不得手だがその時々の感想や瞬発力のある情報を書き出すには便利だ。それは間違いない。問題は、そこに軸足をおいて生活することによる自身の心構えだ。

 

一日の最後、あるいは空いたタイミングに「ここまでの一日はどうだったか」をふりかえる、ということが少なくなった。都度その場で書いて消費して、それで終わってしまう。それは別に悪くなどない。悪くはないが、もともといい加減な自分に多少なりとも日々を丁寧に生きるよう律していた柱が失くなっていたように思えている。

 

完全にtwitterに移行してしまう十数年前までの6年ぐらいはこのblogの前身である「はてなダイアリー」を軸足にしていたが、当時書いた記事を読み返してみて、若き日における自身の痛々しさに苦笑しながらも、色々あったのだ、と思い出せるし、当時は毎日その日あったことを記事にまとめることを楽しみに生きていられたのだと思う。4日間連続で徹夜カラオケに興じた日々とか、それまで知らなかった麻雀を覚える過程とか、VOCALOIDに興味をもってDTMを始めたりとか、その流れでギターを始めたりとか、挙げ句コミケで出すCDを作ったりとか。今は亡き友人と交流した日々も含め、かつての自分の歩みがそこに残っている。確かにその日々はあったのだと、記事が雄弁に訴えかけてくる。

 

暑さで「平日に仕事をして休日は疲れて寝ているばかりで、あの10年近くは何もしないまま過ぎ去ってしまったのではないか」という絶望が鎌首をもたげてきた折、過去の自分が残したそれらの記録は福音だった。色々新しいことに挑戦してきたじゃないか、そしてそれはちゃんと楽しかったじゃないか、仕事でもあれやこれやのタイトルに携わって、今でもそれを思い出してくれる人たちがいるじゃないか、と。

 

twitter(現X)はそうした記録を掘り返すのがなかなかに手間であったりする。使った言葉やフレーズ、時期を憶えていれば検索できるのだが、そうでない場合掘り返すのが至難の業で埋もれてしまうことがあるし、今でこそスレッド機能がついたがそうなる前は記事の一つ一つが断片的だった。公式に画像ツイートができる以前に広く使われていたtwitpicなどに画像を上げていたツイートは、今はもうリンク切れでどんな写真を添えていたのかもわからない。自分の場合その場その場で衝動的にツイートするので、ちゃんとまとめられていることが稀だ。そういうのが得意なメディアなのだから当然だが、逆に完全にそこに軸足を老いてしまうとふりかえる習慣を捨ててしまう。少なくとも俺はそうなっていたように感じている。

 

これらを踏まえ、暑さで己のこれまでとこれからを考えさせられるタイミングが生じた結果、実はtwitter以前にblogを書いていた日々のほうが毎日を大事に生きていたのでは? という結論に至ってしまった。何がきっかけであれ、気づいた以上は動かねばならない。

 

今さらblogと思うだろうか? それでもこれは多分自分に必要なことだ。意識が高い訳じゃない。ただ破滅に向かい転がり落ちそうなときに、先んじて手を打とうとしているだけに過ぎない。今年の12月には齢50に至る、生涯の終わりとなる年齢が視界の端にちらつき始めた自分の足掻きのようなものだ。これからの10年、20年を、今酷暑にそそのかされて思うような、「何もないまま過ぎ去った10年」などと思う結果にしたくないだけなのだ。