宝である思い出の生殺与奪を他人に握らせた顛末

まだ幼かった頃、家族や友達と出かけて作る思い出よりも、おもちゃやお菓子が欲しかったのを覚えている。

生まれてから物心ついてせいぜい数年しか経っていない子供にとって、そうした「大人が考えた、思い出に残ると称するイベント」というのは「つい何日か前にやったこと」に過ぎず、そもそも思い出して懐かしむ程生きていないのだから、大した価値を見いだせなかったのだろう。

今はどう考えるか? 言うまでもなくそれは自身の歩んできた軌跡そのものであり、自身を形作る礎であり、誇りの源だ。生きている限り積み重ね続けていくべきものだ。

晩年に残るのは未来への展望ではなく、歩んできた過去の軌跡だろう。未来そのものが消費され過去になっていくからだ。己の一生の残り時間を刻一刻とすり減らしながら、若い頃に思い描いた未来が今と呼ばれた瞬間を経て過去として確定していく中で、自身の身に起きたことを解釈し糧とするものが思い出であるのだと考える。

生涯という「始め」と「終わり」を持つ時間は、最後には全て思い出として変換される。それゆえ、人は生きれば生きるほど「思い出」の価値を理解する。その量や質、良し悪しに関わらず。


…なかなか大層な書き出しで申し訳ないが、その思い出というのは、わりと「証拠」と「記録」によって補強されるところがある。よくいう「思い出の品」というのが「証拠」、「そのときの写真」とか「日記」などが「記録」にあたる。もちろん記録自体が「証拠」ともなりうる。

思い出を補強する大切な「記録」「証拠」たる「写真」。
昨今ではスマートフォンにカメラがついており、行く先々で誰もが写真を撮りSNSで共有するようになった。

「撮り散らかされている」と言っても過言ではない。しかしそれ自体悪いことではない。むしろ様々な広がりを人にもたらす。新たな可能性の源泉ともなる。

しかしその裏で、写真を紙にプリントアウトし、物理的なアルバムを作っているという人はどのぐらいいるだろう? 昔はそれ以外に写真を整理する方法がなかったにせよ、今はそこまでする必要を感じていない人も少なくないだろう。

SNSに上げてあるから漁れば出てくる、いつでも取り出せる」

そんな風に考えているかもしれない。

もし、そう考えているなら、それはつい先日までの俺と同じだ。そして、その俺の身に起こったことを是非聞いてほしい人でもある。

ようやく何を語りたいかを説明できる。

「あなたの大切な思い出の証拠や記録となる写真の保管を、赤の他人が提供するサービスに委ね、それだけで良しとしないほうがいい」

自分はこのblogを2004年に始めた。当時は写真を掲載するため「はてなフォトライフ」を利用する必要があり、当時の写真はあらかたそちらに上げた。

2010年に当時やっていたVOCALOIDの楽曲製作で作った曲を宣伝し、同好の士との交流を持つためにtwitterを始めて以来、自分の情報発信はtwitterか主軸となり、こちらのblogはほとんど書かなくなっていった。

当時のtwitterは画像付きツイートをサポートしておらず、twitpicという外部サービスを利用するのが主流だったので、その時期の写真はほぼ全てがtwitpicに上がるようになった。

事件は緩慢に起きた。自分はそれが致命的な事件だと認識もできなかった。twitterが画像付きツイートをサポートし、最終的にはtwitpicからtwitter機能へ皆が移行し、twitpicはサービスを終了した。

終了にあたり、twitpicはそれまで上げた写真のアーカイブを.zipファイルでダウンロードし回収できるようにしてくれた。そこまではよかった。自分もダウンロードして一段落したと思った。

しかし、電子データというものは頻繁な接点がなくなると存在そのものが自身のなかで希薄になっていく。「アーカイブは手元にあるし大丈夫だ」当初そう思っていても、日常的にtwitpicのサイトを開いていた当時とは違い、その.zipファイルは「ストレージの肥やし」になっていった。

そして「PCを買い換える」ということが幾度かあった。日常的に用いるソフトウェアの類いは新たにインストールするし、日常的に使ったり現在作業中のデータは優先的に移行作業を行う中、元twitpicの画像アーカイブは日常的に使うものでもないので優先順位を下げられ━━そして忘れられた。

そして10年近い時を隔て、その写真を参照したいと思い、求める写真が現行のtwitter上にも過去のはてなフォトライフにもなく、それがtwitpicと共に沈みアーカイブを振りだす必要があると気づいた時、そのアーカイブがどのPCのストレージに眠っているのか、もはや思い出せなかった━━

つまりその時期の写真だけが、twitpicの終焉と共に闇に消え、その事に10年近く気付かなかったのだ。


この件から得られる教訓や、検討する価値のある選択は幾つか出てくるだろう。

  • twitpic ではない画像ストレージサービスも、いずれは終わる時がくる。そう考えなければならない。はてなフォトライフtwitter(現X)も、InstagramGoogleフォトでさえ終焉を迎える可能性は0ではない。一つのサービスに依存せず、複数の画像ストレージサービスを併用するのが良い。
  • 電子データは実体がないが故に、日常的に触れていないと「それが存在することさえ意識しなくなってしまう」ことがある。意識の外にある間に失なわれても気付くのは難しく、気づいたときに取り戻すのは非常に困難、場合によっては不可能である。
  • PCやスマートフォンなど電子機器端末は乗り換え前提の道具であり、生涯の終わりまで持ち続けたい「思い出の記録の保管場所」としては不適任と言って良い。ローカルストレージでの保管は嫌が応にも一時的なものにしかならない。
  • 思い出の記録や証拠は、昨今「断捨離」などで言われるような「"いつか使うかもしれない"のいつかはない」というものではない。何かの折に思い出す可能性が常にあるからこその「思い出」である。
  • 仮にもし写真を物理的なアルバムで管理していたら、その物理的実体が常にその存在を主張するし、自身が廃棄しない限りサービス終了で失なわれるということもない。ローカルストレージとどう違うんだと思われるかもしれないが、ローカルストレージは乗り換えを前提とした電子機器の一部だが、物理アルバムは写真を長期保存する目的に特化した道具であり全然違う。全ての写真をとはいかないまでも、重要度の高い記録は物理媒体として保管することを検討するだけの理由はあるのではないか。


…まあ、ひとまず自分は辿れる限り過去に使ったPCのストレージを漁ってみることにする。